大飯発電所(おおいはつでんしょ)は、福井県大飯郡おおい町にある関西電力の原子力発電所。 関西電力が保有する原子力発電所としては最大規模で、日本の原子力発電所では柏崎刈羽原子力発電所・福島第一原子力発電所に次ぎ、日本で3位の発電量がある。施設周辺は若狭湾に面し、半径20km圏内に高浜発電所(大飯郡高浜町)もある。
「大飯発電所」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
最終日付(更新日付)UTC 2012年6月18日 (月) 13:24
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A3%AF%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
2012年6月19日火曜日
大飯原発 再稼働
2012年5月23日水曜日
2011年8月16日火曜日
泊発電所
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概要
1969年の立地決定当初は、日本では珍しい内陸型原子力発電所として、隣接する共和町との境界付近に建設を予定しており、計画上の名称も「共和・泊発電所」であったが、1978年に現在の泊村沿岸部に計画を変更し、名称も「泊発電所」となった。
「泊発電所」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
最終日付(更新日付)UTC 2011年7月28日 (木) 16:20
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%8A%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
2011年6月27日月曜日
玄海原子力発電所
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概要
玄海原子力発電所(げんかいげんしりょくはつでんしょ)は佐賀県東松浦郡玄海町にある九州電力の原子力発電所。 3号機は日本初のプルサーマル発電を2009年から実施している。敷地面積は約87万平方メートル。
見学・PR施設として「玄海エネルギーパーク」が設置されている。
「玄海原子力発電所」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
最終日付(更新日付)UTC 2011年6月15日 (水) 07:52
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%B5%B7%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
2011年4月8日金曜日
六ヶ所村
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概要
日本全国の原子力発電所で燃やされた使用済み核燃料を集め、その中から核燃料のウランとプルトニウムを取り出す再処理工場である。最大処理能力はウラン800トン/年、使用済燃料貯蔵容量はウラン3,000トン。2010年の本格稼動を予定して、現在はアクティブ試験という試運転を行っている。試運転の終了は当初2009年2月を予定していた。しかし、相次ぐトラブルのため終了は2010年10月まで延期されることが発表されていたが、2010年9月になってから、さらに完成まで2年延期されることが発表された。完成までの延期はこれまでに18回にも及ぶ。これら延期のため、当初発表されていた建設費用は7600億円だったものが、2011年2月現在で2兆1930億円と約2.8倍以上にも膨らんでいる。
茨城県東海村に日本原子力研究開発機構が所有する再処理工場(東海研究開発センター核燃料サイクル工学研究所 最大処理能力:ウラン210トン/年)を置換する施設とされ、青森県六ヶ所村の敷地内にはウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターが併設して建設されている。今後 MOX燃料工場の建設も予定されており、核燃料サイクルのための核燃料コンビナートを形成する。
この施設は核燃料サイクル事業で先行するフランスから技術協力を受けており、現在でもフランス人技術者が複数名、本施設で働いている。
「六ヶ所再処理工場」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
最終日付(更新日付)UTC 2011年4月8日 (金) 17:50
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E3%83%B6%E6%89%80%E5%86%8D%E5%87%A6%E7%90%86%E5%B7%A5%E5%A0%B4
2011年4月3日日曜日
もんじゅ
【関連リンク】
概要
もんじゅは敦賀市(緑色の部分)北西部の敦賀半島に位置する
福井県敦賀市白木二丁目1番地に位置する。
「もんじゅ」の名は仏教の文殊菩薩に由来する。若狭湾に面する天橋立南側にある天橋山智恩寺の本尊から来ているといわれる。
1991年から性能試験を開始したが、1995年にナトリウム漏出火災事故が起きたために運転を休止した。運転再開のための本体工事が2007年に完了し、2010年5月6日に2年後の本格運転を目指して10年の計画で運転を再開した。「もんじゅ」を用いて、発電施設としての信頼性の実証、運転経験を通じてナトリウム取扱技術確立、また、高速増殖炉の研究開発の場として今後の利用が予定されている。しかし、2010年8月26日 原子炉容器内に筒型の炉内中継装置(重さ3.3トン)が落下。2011年1月28日に復旧作業を東芝と契約した。炉のふたにひっかかった燃料交換装置を取り外すのに必要な機器を新たに設計・製作したり、外した燃料交換装置を分解調査する予定。
「もんじゅ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
最終日付(更新日付)UTC 2011年4月11日 (月) 13:30
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2011年3月28日月曜日
チェルノブイリ
チェルノブイリ原子力発電所事故(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょじこ)とは、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7の参考事例として知られている。
4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れも相まって被害が拡大・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。
現在は分離独立したウクライナに処理義務がある。現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業が全面的に禁止されている。
爆発事故の概要
この規模の原発事故は発生時点では他に例がなく、当時は原子力開発の歴史上で最悪の事故と言われていた。
事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、原子炉が止まった場合を想定した実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。これに関しては、広島に投下された原爆(リトルボーイ)による放出量の400倍とする国際原子力機関(IAEA)による記録が残されている。詳細は影響の部分を参照の事。
当初、ソ連政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を公表しなかった。また、付近住民の避難措置なども取られなかったため、彼らは甚大な量の放射線をまともに浴びることになった。しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソ連も事故の公表に踏み切った。(当初、フォルスマルク原発の技術者は「核戦争」が起こったと考えた。)日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。
爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連当局は応急措置として次の2点を実行した。
減速材として炉心内へ鉛の大量投入。
液体窒素を投入して周囲から冷却、炉心温度を低下させる。この策が功を奏したのか一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。
爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せきかん・せっかん)と呼ばれている。
事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は、居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1ヶ月後までに原発から30km以内に居住する約11万6千人全てが移住したとソ連によって発表されている。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。
放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも拡大した。
死者数
ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人とも言われるが、事故の放射線被曝とがんや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある。
事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。
1986年8月のウィーンでプレスとオブザーバなしで行われたIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァシリー・レガソフは、当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人ががんで死亡するという推計を発表した。しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字に過ぎないとして、会議では4,000人と結論され、IAEAの公式見解となっており、2005年にも同じ数字が公式発表された。ゴルバチョフは、レガソフに、IAEAにすべてを報告するように命じていたが彼が会場で行った説明は非常に細部まで踏み込んでおり、会場の全員にショックを与えたと回想している。結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れ無かった。
「チェルノブイリ原子力発電所事故」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
最終日付(更新日付)UTC 2011年4月13日 (水) 11:13
URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85#.E6.AD.BB.E8.80.85.E6.95.B0
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